新陰流兵法私見録

伊賀谷山人

この私見録は寄稿されたものです(管理者)


新陰流弘流

 

1、新陰流誕生

 日本の兵法は、「新当流(しんとうりゅう)」「念流(ねんりゅう)」「陰之流(かげのりゅう)」を源流とすると言われています。新陰流はその中の陰之流から起こっています。

 陰之流は1500年代なかばに愛洲移香斎(あいすいこうさい)師が起しました。移香斎師は今の三重県南勢町に生誕したと言われています。師はこの地に居城を持ちながら全国を行脚し、各地に陰之流を伝えました。また、師は水軍を指揮され、中国にも渡り、かの地にも陰之流を伝えています。中国に陰之流が伝えられたことは中国の武芸書である「武備志(ぶびし)」にも記録されていますし、現代の中国武術にもその法が伝え残されています。

 この移香斎師に師事し、陰之流をより鍛練、工夫したのが上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)師です。伊勢守師は、はじめ新当流を修め、さらに陰之流を修養、鍛練されました。そうして工夫された流儀を「新しい陰之流」すなわち「新陰流」と称されました。

 伊勢守師の武勇は戦国の世に広まり「上野国一本槍」とも称されました。その評判は甲斐の武田信玄公にも伝わり、信玄公は武田軍の兵法指南役にと招請しますが、伊勢守師は自らの兵法をさらに修養工夫するために、またその工夫をひろく世の中に広めるために辞退し、全国行脚に向かわれました。

 その時に伊勢守師は信玄公の御気持を無にせず、生涯忘れぬこととして、秀綱という名から、信玄公の信の一字を頂き信綱と改名しています。

 伊勢守師は鎌倉街道沿を行脚し三河に入り、尾張から伊勢街道を通り上方に向かわれています。その途中、尾張一宮の妙興寺にて暴漢と遭遇します。この時のことが将来の「無刀」という法を工夫するきっかけになったと言われています。

 

2、     柳生宗厳との出会い

 伊勢守師は全国行脚の途中、伊勢から京に上がる時に伊勢の国守北畠具教卿を訪れ、そこで奈良興福寺宝蔵院の胤栄と、柳生庄の柳生宗厳の名を聞きました。当時宝蔵院胤栄師は十文字槍の遣い手として、柳生宗厳(むねよし)師は新当流の遣い手として名を馳せていました。

 伊勢守師は宝蔵院を訪れ、また伊勢守師が宝蔵院を訪れていることを耳にした柳生宗厳師も宝蔵院に駆け付け、互いの兵法の工夫を談義し、ついに伊勢守師と宗厳師は太刀を交えてみようということになりました。

 太刀を交えること三度、いずれも伊勢守師が冴え、これに感服した宗厳師はその場にて伊勢守師に教授を請い、伊勢守師はこれを許しました。宗厳師は伊勢守師を柳生の庄に迎えることになります。

 

3、「無刀」

 伊勢守師を柳生の庄に迎えた宗厳師は、これをきっかけに伊勢守師の流儀「新陰流」を一心に修養されました。この姿に惚れ込んだ伊勢守は将軍足利義輝公に拝謁するため上洛されるさいに、「太刀を持たずとも、相手を制すること」という課題を宗厳師に与えます。

 宗厳師は伊勢守師が上洛されている間、一心不乱に課題に取り組みました。

 そしてついに課題を克服した時、時を同じくして伊勢守師が京より戻り、ここで宗厳師はその工夫「無刀」を披露しました。これに深く感じ入った伊勢守師はついに「御流儀能能工夫し候。以後柳生流と称すべし」として新陰流の印可を御与えになり、一派一門を御許しになりました。

 

4、伊勢守一門

 伊勢守師のもとからは多くの素晴らしい遣い手が大勢輩出しています。

 柳生一門はいうまでもありません。柳生一門は宗厳師以降江戸幕府の要職にあって徳川将軍家の兵法指南役を務めた柳生宗矩(むねのり)師(江戸柳生家)、御三家筆頭尾張徳川家の兵法指南役を務めた柳生利厳(としとし)師(尾張柳生家)がおられます。

 伊勢守師の甥で、全国行脚に常に帯同しておられた疋田文五郎(ひきたぶんごろう)師は九州細川家のもとで新陰流を伝えられました。近年この疋田文五郎師の遣われた新陰流を疋田新陰流と称していることが多々ありますが、この表現は正しくありません。現代において、柳生家が遣う新陰流を柳生新陰流、疋田家が遣う新陰流を疋田新陰流として区別をする目的があるのかどうか定かではありませんが、疋田文五郎師は、終生、新陰流と称しています。

 丸目蔵人(まるめくらんど)師は伊勢守師が足利将軍に拝謁し、京に滞在しておられる時に師事されました。伊勢守師が京室町の足利御所にて将軍に台覧されたおりにはその相手を務め、将軍義輝公より「丸目天下の重宝」との感状をいただきました。その後は九州に渡り、自らの流儀をタイ捨流として広められました。

 家康公の第六男松平忠輝公の兵法指南役であった奥山休賀斎(おくやまきゅうがさい)師も伊勢守師に師事しています。

伊勢守師を師事し、その影響を受けた先師は大変多く、ここに記した師はほんの一例に過ぎません。伊勢守師の流儀「新陰流」は戦国の世から江戸徳川時代に渡って様々な形で全国にひろまりました。全国に広まった新陰流はその土地土地にて、修養する門人により様々な工夫がされ、後生まで、また現代に及び伝わっているものも数多くあります。

 

5、徳川家と柳生家

 伊勢守を柳生の庄に迎えられ、新陰流を一心不乱に修養し、「無刀」にたどりついた宗厳師は、その後、伊勢守師から新陰流の印可を受け、影目録を授かります。以後も宗厳師は流儀修養工夫に余念なく、またその一門皆新陰流に取り組みました。

 そんな折、「無刀」の噂が徳川家康公の耳に入ります。家康公は大層興味を持たれ京伏見に宗厳師を招請します。宗厳師は嫡子である宗矩(むねのり)師を帯同させ、家康公に「無刀」を披露します。これに驚愕した家康公はその場で新陰流、柳生宗厳師に師事し、誓紙を記されました。

 家康公は宗厳師を兵法指南役にと請いますが、宗厳師はこれを御辞退され、かわりに宗矩師を推挙します。家康公はこれを受け入れ、自身の側近の一人に加えられました。

 豊臣秀吉公御逝去以降関ヶ原の合戦に徳川勢が勝利をおさめると天下は徳川家を中心に太平の世を迎えることになります。

 家康公の側近として活躍された宗矩師はその後二代将軍秀忠公、三代将軍家光公の兵法指南役として幕府の要職を務められました。以後宗矩師の家系は一般に江戸柳生家と呼ばれています。

 宗厳師がことのほか可愛がり、大切にしたのが嫡孫利厳(としとし)師です。利厳師は幼少の頃からとくに熱心に兵法を修養されました。

 利厳師は青年期には加藤清正公の兵法指南役として九州に赴いていましたが、兵法修練のために職を辞し、柳生の庄にて日々工夫を繰り返す毎日を過ごしていました。

 徳川家による天下平定がすすみ、尾張に家康公の第九男義直公が入られることになると、まだ幼少の義直公をしっかりと支えることができる人物として、尾張家付家老である成瀬隼人正から熱心な招請を受け、ついに兵法指南役として尾張にはいられました。

 

6、江戸柳生家

 宗矩師以後、江戸柳生家では十兵衛三厳師や宗冬師といった遣い手が輩出されました。しかし、宗冬師以後嫡子に恵まれず家系は養子によって継承されていきます。流儀のほうはというと、代々門弟から素晴らしい遣い手が輩出しています。その技量を見込まれて大名家の兵法指南役となり、その土地に新陰流を広められた方もいますし、新陰流に工夫を加えて自分自身の一門をひらかれた方もいます。

 

7、尾張柳生家

 尾張柳生家は宗厳師から代々嫡子でその家系を継いでいます。

 利厳師の次男利方(としかた)師、三男包厳(かねとし)師は徳川300年の創世期にあって、尾張家兵法指南役としての尾張柳生家の立場を確立しました。以後、尾張柳生家直系からも優れた遣い手が輩出していますが、特筆すべきは門弟から輩出された素晴らしい遣い手の多さです。尾張柳生家はこうした門弟に支えられて時代を乗り切ってきたのです。

 

諸 師 列 伝

 

1、尾張藩主徳川義直

 尾張藩の初代藩主となったのは家康公第九男徳川義直公です。

 義直公は利厳師を兵法指南役として迎え、常に藩政についての諸問題の解決に利厳師の意見を取り入れていきました。

 また兵法修養にも大変な錬磨を重ねられ、その技量は当時の尾張柳生一門のなかでも特に秀でていたといわれています。

 義直公の政治手法で特筆すべきは常に朝廷との関係を重んじられてきたことにあります。義直公の「王命によって催されること」という遺訓は以後代々の尾張藩主に大変な影響を与えていますし、水戸藩主徳川光国公の「大日本史」編纂にも影響を与えています。後述しますが、幕末の尾張藩主徳川義勝(よしかつ)公の「名古屋無血開城」という重大決定にも影響をおよぼしたと言われています。

 

2、柳生連也斎

 「尾張の麒麟児(きりんじ)」といわれたのが柳生厳包師です。厳包師は利厳師と島左近(しまさこん)公の娘との間に生まれた、利厳師の三男にあたります。彼は幼少の一時期を三州三谷(みや)にて過ごしたといわれています。

 厳包師は幼少のころから優れた技量を発揮し、青年期には、兄利方師とともに三代将軍家光公の御前にて、燕飛(えんぴ)ノ太刀曲遣いを演武し、家光公はその素晴らしさに感歎したといわれています。

 厳包師は刀の拵にも大変造型が深く、師の工夫された拵は尾張拵のなかでもとくに「柳生拵」と称されるようになりました。その特徴は目貫位置が逆さまになっていることや、峯の部分を平らにおとしてあることが挙げられます。師は好んで秦光代の打った刀を愛用とされましたし、師が自ら手掛けた鍔は「柳生鍔」と呼ばれています。鍔の仕様は三十六歌仙といわれています。

 

3、尾張徳川家と尾張柳生家

 尾張徳川家と尾張柳生家は主従の関係にあったことは言うまでもありませんが、「兵法の修養」という点でお互いに工夫をしあう関係でもありました。

 新陰流の道統は尾張柳生家と尾張徳川家で交互に継承されてきました。

 初代藩主義直公は利厳師の「王道論」を学び「王命によって催されること」という遺訓を残されました。

 二代光友公は新陰流の技法に様々な工夫を残されています。

 時の藩主が新陰流を修養することは幕末、明治になっても続きました。

 

4、柳生厳周

 徳川時代を通じて江戸柳生家は将軍家の、尾張柳生家は尾張家の要職につき天下大平に腐心してきました。

 時代の変遷とともに徳川家の威光に陰りが見え始めた幕末といわれる頃の柳生両家はとくに大変な時期を迎えます。この頃になると日本国中は尊王攘夷派と幕府派に大きく二分されていきます。柳生両家は幕府ならびに尾張家との関係から二派のとりまとめに大変苦労したといわれています。

 尾張柳生家についてのことでは、尾張藩は御三家筆頭という立場でありながらも、前述した義直公の遺訓よりどちらかといえば朝廷優位の立場にありました。

 孝明(こうめい)天皇の妹君で後の明治天皇の叔母にあたる和宮(かずのみや)妃が将軍家茂(いえもち)公との婚姻により江戸に御下降される折にはそのお側近くにて厳重なる警護をし、無事に江戸に御到着させられました。

 藩主義勝公は、薩摩長州連合軍との戦いの時、時の今上孝明天皇の極秘の勅命により、その意をくみ取り、名古屋城の無血開城を決定されています。

 この幕末の動乱期から明治、大正にかけて尾張柳生家の中心となり活躍されたのが柳生厳周(としちか)先生です。

 厳周先生は幕末期には、太平の時代のなかでややもすれば甘くなっていた柳生の業をひきしめ、尾張藩のために大変な御努力を尽くされました。

 徳川体制が終焉を迎え、新しい時代「明治」となると、武家の生活も大きく様変わりをせざるを得ない状況になりました。武家といえども何ら特別な立場ではなく、廃刀令により刀を帯びて行動することも許されなくなりました。

 兵法、武術に対する考え方もずいぶん変わり、とくに廃刀令以後は廃れはじめる流儀もありました。そんな中、武術に対する意識を取り戻そうと榊原健吉(さかきばらけんきち)らが撃剣興行を行い、従来の武家のみならず、一般市民にも武術を奨励する動きがおこりました。

 厳周先生は尾張柳生一門の立て直しをはかり、名古屋白壁の柳生道場は活気を取り戻しました。また、江戸柳生家ともよく深厚をはかり、柳生一房氏の協力もあり東京に碧榕館(へきようかん)道場をおこされました。

 明治天皇は叔母にあたる和宮妃の江戸御下向のさいに尾張柳生家がずいぶん活躍したことを忘れておらず、皇居に厳周先生を御迎えになられて当時の労をねぎらわれました。また、皇居内に清寧館(せいねいかん)を築かれ、そこで新陰流を教授することを許されました。

 

5、神戸金七

 神戸金七(かんべきんしち)先生は厳周先生の高弟にあたります。厳周先生はことさら神戸先生を可愛がられ、また、流儀を厳しく教授されました。柳生厳長(としなが)先生とは兄弟弟子の間柄になります。

 厳長先生は流儀にとって大切な機会にはいつも神戸先生に打太刀をたのみましたし、碧榕館ではともに門弟の教授にあたっていました。厳長先生は神戸先生をとても大切にされていました。

 厳周先生が奈良柳生の庄にある報徳寺や、利厳師が寝むる京都麟祥院に御参りされる時にはいつも帯同されました。

 戦後も厳長先生やほかの柳生一門の方々に協力を惜しむ事なく流儀興隆に励まれ、晩年には春風館道場をおこされ後身の教授に尽力されました。

 

6、柳生厳長

 柳生厳長(やぎゅうとしなが)先生は厳周先生の嫡子で、大正から戦前戦後の混乱期、昭和にかけて神戸先生とともに流儀の興隆に腐心されました。

 厳長先生は「正伝新陰流」を著し、新陰流の歴史や、日本の兵法の歴史を一般にわかりやすく紹介されました。また、名古屋、東京で講道を開かれ流儀の解説をおこなったりもされました。

 また、関東大震災により尾張柳生家の道場である碧榕館は倒壊してしまいましたが、その再建にも力をかけられ、金剛館として再び道場をおこされました。

 

7、鹿嶋清孝

 鹿嶋清孝(かしまきよたか)先生ははじめ名古屋にて田中厚先生のもとで修養され、京都武専の主任教授を務め、内藤高治(ないとうたかはる)先生の秘蔵弟子といわれた先生です。武専から故郷名古屋に戻られた時、田中先生がおこされた道場である精勇館(せいゆうかん)を船橋家より譲り受け、武道の教授をされました。

 名古屋に戻られたおり柳生厳長先生と出会われ、厳長先生に師事し、抜刀勢法を修養されました。

 鹿嶋先生の抜刀勢法は全く見事なもので、「組太刀の神戸(神戸先生のこと)に抜刀の鹿嶋」と評判されました。

 無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)河野百錬(こうのひゃくれん)先生とも深厚をもたれ、名人と称された河野先生にして名人といわしめました。

 戦後、精勇館にて後身の教授につとめられ、多くのすぐれた門人を輩出しています。また、戦後の一時期には厳長先生も鹿嶋先生のもとで一緒に暮らされともに教授を行われていた頃もありました。

 

8、加藤伊三男(現存)

 加藤伊三男(かとういさお)先生は神戸先生に師事し、春風館道場、新陰流、尾張貫流槍術を修養し、継承されました。

 加藤先生ははじめ鹿嶋先生のもとで抜刀勢法を修養していましたが、鹿嶋先生に推挙され神戸先生のもとで修養されました。

 現在、春風館加藤先生の下で多くの門人が新陰流ならびに尾張貫流の修養をし、日本武道館にかかわる活動を中心に、名古屋地区での各武道会に参加をしています。また、全日本剣道連盟の大会にも出場し、平成13年3月には、フランスにて開催されたヨーロッパでの剣道大会に出場し、いわゆる公式の記録に残るかたちで槍術と剣道による試合を行いました。

 

9、鈴木安近(現存)

 鈴木安近(すずきやすちか)先生は、鹿嶋清孝先生に師事し、抜刀勢法を修養されました。

 鈴木先生はとくに抜刀を中心に修養されましたが、神戸先生が精勇館にて新陰流の組太刀を教授されたおり他の門人の方々と一緒に修養していますし、精勇館以後一時期春風館にても継続して組太刀の修養をされました。また、後年鹿嶋先生に許され柳生厳長先生の下でも抜刀勢法を修養されています。

 抜刀ならびに組太刀の修養に励まれ、自宅に道場をもうけられたおり、厳長先生に許され、神戸先生より碧榕館の名称をいただいています。碧榕館は前述しました通り、尾張柳生家が東京で築いた最初の道場の名称で、その名称を許されたことは大変栄誉のあることです。

 




                           諸 師 概 略

 

上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)

 武蔵守秀綱(むさしのかみひでつな)と表記されることもある。「上泉」は「かみいずみ」とも「こういずみ」ともよばれることがある。一般的には「かみいずみ」と呼ばれる。

『影目録』『斬合口伝書』を著す。

 

柳生但馬守宗厳(やぎゅうたじまのかみむねよし)

 一般に「石舟斎(せきしゅうさい)」と呼ばれる。

 『没茲味手段口伝書(もつじみてだてくでんしょ)』を著す。

 

柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)

 石舟斎の嫡子にて、江戸柳生家を起し、大和柳生庄の家督を継承する。ニ代秀忠公、三代家光公のもとで活躍し、一万石の大名となる。

兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』を著す。

 

柳生伊予守利厳(やぎゅういよのかみとしとし)

 石舟斎の嫡孫にて、尾張柳生家を起す。伊勢守来の新陰流の正伝を石舟斎より受ける。

 一般に「兵庫助(ひょうごのすけ)」と呼称される。「如雲斎(じょうんさい)」「長厳(ながとし)」ともある。晩年を麟祥院にて過ごし、「春光院殿(しゅんこういんでん)四友居士(しゆうこじ)」の戒名を受ける。

始終不捨書(しじゅうふじゃしょ)』を著す。

 

柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべいみつよし)

 宗矩の子。

 『月ノ抄』を著す。

 

柳生利方(やぎゅうとしかた)

 利厳の次男。「如流斎(じょりゅうさい)」とも。

 三代家光公の御前演武にて厳包の打太刀を務める。

『打太刀目録』を著す。

 

柳生厳包(やぎゅうとしかね)

 利厳の三男。一般に「連也斎(れんやさい)」と呼称される。

 伊勢守来の新陰流の解説を具体的に様々著し、初学者にも理解をえることができるように「取り上げ遣い」を考案している。

 また、師の工夫した刀剣の拵は尾張拵の範疇にはとくに「柳生拵」と呼ばれている。

 

柳生三五郎厳周(やぎゅうさんごろうとしちか)

 幕末から明治、大正期の柳生家当主。当時期の兵法及び武道振興に尽力する。

 

柳生金治厳長(やぎゅうきんじとしなが)

 大正期から、昭和にかけての柳生家当主。

正伝新陰流(しょうでんしんかげりゅう)』を著す。

 

神戸金七(かんべきんしち)

 厳周師の高弟。厳長師とは兄弟弟子となる。「可水(かすい)」を毫す。

 昭和期における武道再興に力を注ぐ。

 『柳生の芸能』を著す。

 

鹿島清孝(かしまきよたか)

 厳長師の高弟。「飛舟(ひしゅう)」を毫す。

 

「厳」の読み方について

「厳」は、尾張柳生家では「とし」、江戸柳生家では「よし」と読んでいます。

 

 [註]以下は、心技についての論述です。(管理者)


         身勢「身懸かり」の変遷

 

1、「沈なる身」

 身勢はその時代の戦い型、用いる武器の移り変わりと共に移り変わっています。新陰流も同様です。

 陰之流がおこった時代には長大な太刀が用いられることがしばしばありました。いわゆる「大太刀」です。大太刀は槍や自在剣、長刀といった長物同様の使い方をする

要があります。

 伊勢守師の頃になると二尺?二尺一寸程度の打刀と呼ばれる長さの太刀が主流をしめるようになります。これは宗厳師の時代にも言えることです。

 そして陰之流から新陰流、伊勢守師、宗厳師のころまでに共通して言えることは兵法を用いる時は合戦の場、鎧甲冑を装着している時だということです。

 成人男性一人分程度の重さのある鎧甲冑を身につけて、三尺をこえる大太刀を使う、または打刀にて複数を相手にする時、その身勢は膝をえまし、低く腰を落とした状態になります。新陰流ではこの身勢を「沈なる身」と言います。

 この「沈なる身」では、素早く走り回ることは困難ですが、どっしりと腰を据え、その腰を中心として振り込まれる太刀の威力は大変なものになります。相手も鎧甲冑を身につけているのでその鎧甲冑に負けない力強い太刀筋でなければならないのです。

 

2、「直立つる身」

 徳川太平の時代となると武士の普段の生活も変化します。鎧甲冑を身につけることが少なくなりました。反面、平素大小両刀差しにて過ごすことが普通となりました。大小両刀指しにて、着物袴姿にて往来を行き交うようになり、現代の私達にとても近い姿にて暮らすようになってきたのです。このようになり、身も軽く、素早い動きが可能になりました。

 ここに変化を求めたのが利厳師です。利厳師は、膝、腰を伸ばした普段の姿勢にて太刀を使うことを工夫されました。この姿勢を「直立(つった)つる身」と言います。

 さらに、頭から兜が外れたことにも注目し、おもいきってより高く太刀を構える「雷刀」の構えを工夫されました。この構え方は現代剣道に言う上段の構えによく似ています。ただ、現代剣道は一刀流を起源としており、新陰流の雷刀とは、左拳の位置が違いますから、同じ構えと勘違いしないことが大切です。

 この直立つる身は、次ぎの厳包師、試合勢法を工夫された長岡房成師によりさらに洗練されたものになっていきます。そしてこの身勢は現代まで通じるものになっていきます。

 

3、「中庸の身懸」

 直立つる身がより洗練され、一般的な身勢になると、それによる新たな崩れが生じるようになってきました。

 この身勢の崩れに気付き、修正をかけたのが、厳包師です。

 厳包師は「中庸五箇の身懸」を著し、直立つる身と、沈なる身を同時に修養し、たがいに相乗させることの重要性を説かれました。

 

 

剣と槍は車の両輪

 

 古流といわれる多くの流儀では、第一とされる法に附随して、必ず第二、第三の法があります。新陰流では一般的には剣術がその第一に取り上げられますが、実際、伊勢守は槍の名手でもありました。剣術に附随して、槍術、体術、軍鑑などの法が正確に伝えられています。

 剣ばかり修養していても、剣以外のものと闘うことは大変困難なことです。これは他のことにも言えます。槍ばかり修養しても槍以外のものと闘うことは難しく、柔ばかり修養していても柔以外と闘うことは難しいものです。剣の技法のなかに槍に向かう法が伝えられていたとしても、それが実際に立合いに役立つものでなければ、また、自分自身がその法を常に修練し、いつでも立合うことができるように心掛けていなければ全くの「机上の空論」となってしまいます。

 ですから、必ず他のもの(()のもの)に対しても心得を持っておくことを忘れてはなりません。

 「剣と槍は車の両輪」、「槍を知らずして剣を語るなかれ」、「剣を知らずして槍を語るなかれ」という教えは大変貴重なものです。

 この点に重きをなした五代尾張藩主頼通(よりみち)公は「全学、一全流」として、剣も槍も長刀も柔も必ず同じように修養することの必要性を後生に説かれました。

 尾張藩では剣は新陰流・柳生家、槍は尾張貫流・津田家がその中心となり、代々の藩主も積極的に兵法の修養をされました。

 「芸どころ名古屋」とはよく言われますが、兵法も同様で、新陰流や尾張貫流を代表に、一刀流、円明流、尾張宝蔵院流、制剛流など多くの流儀が活躍していました。

 頼通公はとくに津田槍術の尾張貫流を大切にされて、「御留流」として他藩への伝播を厳しく禁じられました。

 

 

「 大太刀 」

 

 陰之流以来新陰流にて用いられる大太刀は、定寸を三尺五寸とし、その前後の長さのものとしています。

 当流の大太刀は太刀先から三、四寸程度までに刃を残し、それより刃履元まではヤスリなどで刃を止めてあります。戦場にて使う場合はその刃止をした刀身部分に革紐や藁縄を巻き、柄をこえて刀身を持ち、自在に右手左手の持ち幅をかえながら使います。

 柄をこして刀身を持つこともあるので、鍔は「はみだし鍔」と言われるごく小さい鍔をあつらえます。

 大太刀は、槍、長刀、自在剣と同様の使い方をするものになります。

 大太刀を使う上で勘違いをしてはいけない点があります。先に記しましたが当流では槍などの長物と同様の扱いで、戦場で抜身にて使うものだと言うことです。道中、腰に差しているものではありません。ですから、使うためには事前に鞘をはらい革紐などの仕込みを終えて十分戦える状態にしておく必要があります。長さ、重さの加減から、不意の抜き打ちに対するものではないということに留意する必要があります。

 宮本武蔵と佐々木小次郎が厳流島にて立合いをしたという言い伝えがあります。この時、大太刀を用いる小次郎が鞘を払い置いた行為を見た武蔵が「鞘を捨てた。小次郎破れたり。」と言ったとか。これは大太刀の使い方をよく理解していない後生の講釈士が、言い伝えを面白くするために少し手を加えたことなのでしょう。

 

「 長 刀 」

 

 現代では長刀(なぎなた)は女性が遣うものと一般には思われがちです。これは時代劇が多分に影響しているのでしょうか。事実、女性が長刀を手にすることもあったようですが、この長刀は女性にも遣いやすいように改良されたものです。

 実際には長刀は戦場においてはある面では槍をしのぐ強みのあるものですし、よく遣われた武具の一つです。その遣い手としては島左近公が著明です。

 長刀は太刀よりも長く、槍よりもやや短かめの寸法なので、取り回しがよく周囲を囲まれた時にも有効な遣い方があります。また、石突を遣うこともできます。

 しかし長刀の最大の強みはその刀身にあります。長刀の刀身はとても強く反りがかかっていることが特徴の一つに挙げられますが、この反りは太刀や槍に対して大変有効な物になります。

 

「 自在剣 」

 

 自在剣(じざいけん)は一般的には長巻(ながまき)という呼称で呼ばれることが多いようです。またこれが遣われた時代は長刀が遣われだした時代よりもやや早いようです。

 先に、大太刀を遣う時には刀身部分に革紐などを巻き、柄を超えて持つことがあることを記述しましたが、自在剣はこの遣い方をより遣いやすくしてあるものと言えるかもしれません。

 自在剣は二尺程度の長さの太刀に柄がついているような拵となっています。大太刀では刀身部分を持ち遣いますが、この刀身部分が柄になっているようなものです。

 そしてこの拵方によりその名の通り自在な遣い方、時には太刀として、時には槍として、または長刀として遣うことができるようになります。

 

「 槍 」

 

 槍は戦国時代にはまさに「戦場の華」でした。太刀の遣い手として名を馳せている武将や兵法家も、同時に槍の遣い手であることが伝えられています。

 槍の種類を大別すると「素槍」と「鉤槍」になります。槍は槍身や拵、長さに様々な工夫がされているものが多くあります。

 まず槍の長さですが、一間半から二間程度のものが多くあります。長いものでは二間を超え三間近くあるものも遣われていたようです。

 素槍に遣われる槍身ではその断面が(つるぎ)のように平に打たれているものや、正三角形になっているものなどあります。また太刀に近い長さの槍身となっているものもあります。この形状は特に左分利流槍術によって遣われています。

 鉤槍の種類は十文字の形状になっているものや、片側だけに鉤のついているものなどがあります。十文字の形状は宝蔵院流槍術によって遣われています。

 尾張貫流は素槍の内の一つになりますが、その特徴は、手前の手に管を持ち、それに槍を通して遣うことにあります。こうした槍は「管槍(くだやり)」と呼ばれます。

 管を用いることにより「槍繰り」は迅速なものになり、また回転がかかるのでその破壊力は他の槍を圧倒しています。

 「朱塗りの槍」という言葉があります。槍の遣い手は大変貴重な存在で、そのなかでも柄を朱に塗った槍を持つことができたのはその流儀を修めたごくわずかな遣い手にかぎられていました。

 戦国の世に活躍した槍ですが江戸時代にはいると、家格の高い一部の武家によってのみ修養されることが許されるようになりました。

 

「 その他の武具 」

 

 戦場にて活躍した武具は前述したものにも以外にも多くあります。

 「鉄砲」は言うに及ばずですが、「鎖鎌(くさりかま)」「鉢割(はちわり)」「棒」など、どれも戦場にて闘う武士一人ひとりが様々な工夫をこらし用いてきたものです。

 

「 刀の長さ 」

 

 現在では、二尺三寸が刀の「定寸」と言われています。この長さの由来は八代将軍吉宗公の倹約令によるところのようです。

 それ以前の武士は各々が遣いやすい長さの刀を「佩かせ」としていたようですが、それが贅沢の象徴にもなってしまいました。吉宗公は幕府財政の立て直しをはかるに際し、武士にも質素倹約を命じました。そのなかで刀に対しても贅沢を抑制するために、長さに対しても「大刀は二尺三寸、小刀は一尺五寸まで」とする一定の制約を設けました。

 実際、刀の遣い勝手という点でも、このくらいの長さが一番遣いやすいのではないでしょうか。もちろん、個人の身長や、その他もろもろの点で、これよりも長い刀のほうが遣いやすい人もいるでしょうし、短い刀のほうが遣いやすい人もいるでしょう。

 柳生厳包(連也斎)師の愛刀として「かごつるべ」「ささのつゆ」があります。「かごつるべ」は二尺四分、「ささのつゆ」は一尺八寸五分です。厳包師は秦光代の刀を好んでいたようで、この二振りも光代のものといわれていますが、打おろした時からこの長さではなく、徐々に短くされています。

 神戸金七先生は「稽古に際しては、年を重ねてきたら、若い頃よりも若干長めで、重い刀を用いて、身体の働きを鈍らせないようにすることが大切である。」と言われていたようです。

 

 

「 抜刀・居合 」

 

 最近では「居合」を修養される方が大変多いようです。剣道を修養される方々のなかにもその延長として、さらに技量を高めるために「居合」を修養されることが多くなっているようです。

 この「居合」とはどのようなものなのでしょうか。

 「居合」は、「居合」とも「抜刀」ともいわれることがあります(柳生厳長先生は「鞘の内」と言われていました)。この違いは何なのでしょうか。

 そもそも、戦国の世から明治維新まで、武士は腰に刀を帯びていることが日常でしたし、また、その刀を抜くことができるのが当然のことでした。

 この武士のなかにも、得手不得手があり、剣術を得意とする者もいれば、柔、体術を得意とする者もいました。

 それぞれの流儀をよく吟味してみると、その流儀の第一の法が、剣術のこともあれば、槍術のこともあり、柔、体術のこともあります。

 そのなかで剣術を第一とする流儀では「抜刀」、柔を第一とする流儀では「居合」と称することが多いようです。

 それは修養する勢法の「間」からも推し量ることができます。一般に「居合」と称されている勢法では比較的近い「間」にて、いかに刀を抜くかを修養する傾向が強いようです。

 ただし本来の姿から勢法を吟味するとおかしな点が生じてきます。武士が大刀を差したまま正座をするというのは、はなはだ疑問の残る点です。

 わざと本来の姿から外れた状態にて、いつでも、どのような体勢でも刀を抜くことができるための修養と考えるほうがより妥当と言えるかもしれません。

 「抜刀」はどうなのでしょう。

 言葉通り「抜刀」は刀を抜くことです。しかし、この場合の刀を抜く状態はまさに不意の事態、急を要する状況を指します。ですから、より早く正確な「抜き打」にての抜刀が要求されます。「目にも止まらぬ」抜刀でなければなりません。

 また、稽古に際しては、大小両刀を腰に帯びて修養することが肝心です。大刀一本だけでの稽古では、日常の往来にての不意の事態に即応できません。

 抜刀だけでなく、その他すべての稽古にても、いつでも実戦即応することができる「心の下作り」を心掛けることが大切なことです。

 

 

「 袋竹刀 」

 

 新陰流にて平素の稽古にて用いられる竹刀は「袋竹刀」もしくは「ひきはだ竹刀」と呼ばれます。

 この竹刀は長さ三尺三寸程度、太さ一寸程度の竹を割り、革の袋をかぶせたものです。

 この革の袋、もともとは刀の鞘を保護するための「鞘袋」です。

 刀の鞘には漆がかけられています。漆は現代でも大変高価のものですが、当時でも同じように高価でした。

 道中腰に差していると様々な障害によって鞘に傷がつくことがあります。高価な漆がけに傷がつくだけでなく、傷の程度によってはそこから水分が入り込み刀の錆の原因にもなりかねません。そうしたことを防ぐために鞘袋が用いられていました。

 この鞘袋に着目し、兵法の修養に活用することを考案したのが伊勢守師です。

 当時、兵法を修養する者のなかには、後々の世にその名を残すことができるはずの多くの優れた遣い手が、同門との稽古中、あるいは他流との試合により二度と太刀をもつことができなくなることがありました。というもの、当時はたとえ稽古であっても本身または木刀を用いていたからです。

 このことを憂いた伊勢守師は、怪我をすることなく、お互いの技量を切磋琢磨するために刀の鞘袋に割った竹を用いた「袋竹刀」を流儀の稽古に使うようにしたのです。

 「ひきはだ」という呼称は、この袋の見かけに由来します。

 袋竹刀の袋は赤漆がかけられています。稽古に用いた袋竹刀に生じた漆のひび割れ模様がひきがえるの容姿に似ていることからこのように呼ばれるようになったようです。

 流儀の創世期に伊勢守師によって考案された袋竹刀によって、新陰流を修養する者は、稽古中に、拳、足、頭を打たれることがあっても、二度と太刀を持つことができなくなるということはなくなりましたし、さらに、どうして打たれたのかを深く追求し、さらなる修養を積み重ねることができるようになりました。

 

「 試し斬り 」

 

 本身を手にすると、その切れ味を試したいという気持ちがわいてくることがあります。

 しかし、当流においては、いたずらに何かを斬るということは決して褒められることとは言えません。

 たしかに本身を手にしているからには、それで斬ることができなければ何にもなりませんが、自分自身の業が、本身にて物を斬る程度の技量に達しているかどうかは普段の稽古にて十分理解することができます。

 ですから「試し斬り」は、ごくまれに、内々にて、正しい刃筋にて切り込むことができているかどうかを確認する程度に抑えておくほうがいいのです。

 演武の時などに試し斬りをすることは慎まなければなりません。試し斬りをする姿を見る方のなかには、その行為を嫌う方もいますし、斬ることを楽しんでいるという誤解を受けることもあります。特に子供のいる場合には厳禁したほうがいいのでしょう。

 手慣れた斬り様、斬り癖のついた手の内は好感のもてるものではありません。

 刀はもともと斬るためのものですし、普段、刃筋を通す正しい稽古をしていれば斬れることが当然なのです。ですから、斬れることを誇らしげにすることは言語道断のことなのです。

 兵法の修養は、決して物を斬る行為のために行うことではありません。また物を斬る事ができることが兵法の修養ができているということではありません。

 

「 常 顔 」

 

 稽古をしている時や、試合をしている時に、顔付きが変わることや、紅潮することは好い事ではありません。同じことですが、手にできた鍔たこや、素振りでできたたこ、隆々とした筋骨を誇ることも良い事ではありません。

 常には仏のような穏やかな表情をした顔付きをしていること、また、一度感極まり、事に及ぶ時にてもその仏の顔でいること。

 常の顔にて、すべての所作を行うことができることこそ、修養している兵法、武術が自分の身になっていることの顕れです。このことを「常顔」と言います。

 しかし、ただ淡々と無表情な顔をしていることとは違います。仏様の御顔をよくよく拝み見て下さい。どの仏様も大変豊かな表情をしていらっしゃいます。

 兵法の「隠し慎む心」はこのようなことにも行き届かせなければなりません。

 どこかのお寺の御本尊に「表は阿弥陀様、裏は阿修羅」となっている仏様がいらっしゃるそうです。兵法を修養する者の姿はまさにこのような姿をしているべきなのでしょう。

 

 

「 殺人剣・活人剣 」

 

 「殺人剣」と「活人剣」、この違いはなんなのでしょうか。

 「殺人剣」は人を殺してしまう剣、「活人剣」は人を殺さない剣。このような簡単なことではありません。

 連也斎師の道歌に

 「そのままに息もつかせで勝ちもしつ

       はたらかせてもとかく我がもの」

というものがあります。この道歌は殺人剣、活人剣を全く見事に表現したものです。

 「そのままに息もつかせで勝ちもしつ」の部分が殺人剣を表現しています。相手に何もさせずに一方的に攻めたてて勝ちを得ることを指しています。

 「はたらかせてもとかく我がもの」の部分が活人剣を表現しています。相手に十分業を遣わせても勝ちを得ることを指しています。

 結論から言えばこの歌の通り、殺人剣であっても、活人剣であっても「勝ち」は自分の側にあるのです。

 「先の先」、「後の先」という表現を遣うことがあります。

 「先の先」とは相手の攻撃を待たずに、自分から仕掛けて勝つことを言います。「後の先」とは相手に攻めさせておいて、その道中にて自分の勝ち口をみいだして勝つことをいいます。

 ただ「後の先」と言っても、相手に機先をとられていては勝ち口をみいだすことはできません。確実に相手の機先を自分が制することができてはじめて「後の先」を遣うことができるのです。

 本当に人を殺さない剣を遣うためには、何より自分が太刀を執らないことになりますが、そのためには、相手に太刀を執らせない心掛けこそ肝要になります。

 如雲斎師が始終不捨書の巻頭に著した「三皇五帝の徳」こそが活人剣の教えの根本と言えるでしょう。

 

 

「 日常に遣われる言葉 」

 

 日常の言葉使いのなかに武術や刀剣に由来する言葉が大変多くあります。

 1、切羽詰まる

 現代では物事に行き詰まることを差します。

 切羽とは刀の拵に使われるものです。柄と刃履の間に鍔がありますが、刀の中心(なかご)に開けられた目釘穴と、柄に開けられた目釘穴との微調整をするために、鍔の前後に用いられる金具のことを差します。

 2、目貫通り

 現代では繁華街の一番通りを差します。

 ここで使われる目貫とは、刀の拵のうち、柄の左右に用いられる金具のことです。

 目貫は拵のなかでもっとも目立つところにある金具です。

 3、鎬を削る

 現代では好敵手同士がお互いの技量を日々競い合うことを差します。

 ここでいう鎬とは刀身の側面のことを差します。

 4、鞘あて

 現代では相手に挑む時の始まりを差します。

 腰に刀を差している当時ではこの「鞘あて」という行為は大変無礼極まりない行為でした。

 5、槍繰り

 現代では、家計や企業の資金繰りのことを差します。

 言葉通り、槍の繰り出し、突き、引くことを言います。

 6、折り目正しく

 現代では物事の筋道を正すことを差します。

 この折り目とは武士が着装する袴の折り目のことを差します。

 江戸の頃は、袴は一般には武家のみが着装することができました。一部、豪商のなかには袴を着装することが許されることがありましたが、この場合、武家の袴とは形態の違う袴となりました。武家の着装する袴は左右に仕切のある「馬乗り袴」と言われるもので、町人は仕切のない「あんどん袴」でした。

 

などなど、身近なところで沢山つかわれています。


 

【 春風館道場について 】


春風館道場の「春」は、


   と、書きます。

 上部に三つ書かれた「十」の字は、上段、中段、下段にてそれぞれ「十文字」に勝ち口を得ることを表しています。

 下部は「入」と「日」になっています。これは「日(光り)の入るところ(隙間)のないこと」を意味し、新陰流にて特に重要視されるところの「太刀の中(剣先から柄頭まで)に身体を蔵すこと」を表しています。

 「春」の一字に新陰流の極意が伝えられています。

 春風館道場は、大東亜戦争後に神戸先生が創設されました。

 神戸先生はこの道場に自らが修めた様々な武術を残されました。

 その代表が尾張貫流槍術、新陰流兵法(剣術、槍術、新当流長刀、杖術)ですが、その他にも小笠原軍鑑、大島流槍術、尾張宝蔵院流槍術、円明流(尾張貫流市川派)、力信流、静流(自在剣)などの多くの法が今も途切れることなく口伝、実伝され、門弟により修養されています。

 
《 参考資料 》

新陰流兵法 外伝 

             『 刀法録 』

                        日本尾張   長岡房成

 

「勇論」

 勇とは何ぞや、天下の事懼るるところ無きを謂ふなり。是れ聖人の一徳なり。智、仁と並挙して之を以って国家を長くして人民を治める徳を為す。孔子の謂ふ所の君子道なる者の三是なり。子思に及んで中庸を作り、此の三者を以て三達徳(智、仁、勇)と為す。是性の徳にして身を修める基と為す故也。故に古の君子必ず先此の三達徳を修めて之に拠り以て礼義を行う。是其の勇を以て固く道義に配しいよいよ盛大也。荀子云ふ、斎人魯を伐たんと欲し卞荘子を忌み敢えて卞を過ぎず。晉人衛を伐たんと欲し子路を畏れ敢えて蒲を過ぎらず。以て見る可。君子の勇、其の所に居って三軍を辟け、又時有って一度怒れば気焔烈々として天地を動かし、三軍を蓋ひ、姦邪胆を破り、強暴気を失う。湯武の怒、言を待たず。太公の雁揚げ、子房の虎嘯き、或いは晏子崔杼の刄を渝えず、以て見つ可。徳に優劣ありと云えども、勇ならば屈撓す可からざる者にして、功を為し、節を立つるに至る。若し其の道義を離れ血気の勇を行へば、安んぞ功を為し節を立つる得むや。又、勇無ければ義に従う能はず。故に勇は必ず道義に配する者なり。然らば士君子たる者、常に当に天理を明らめ、人欲を滅し、志気を養うなり。天理明らかならざれば事を計るに疑惑して是非、得失を分かたず。人欲を滅せざれば私意の起こる有って天理に循う能はず。志気養はざれば危うきに臨んで強懼して事成らず。天理を明らしむるは智なり。所謂学を好むに在るなり。人欲を滅するは仁なり。所謂力行に在るなり。志気を養ふは勇なり。所謂恥をしるなり。この三者自彊息まざれば三者相因り相資成するか。智以て天命を知る者死に臨んで騒がず、仁以て己が任とする者は私欲無きを以て物に屈せず。是智仁能く勇を資成するなり。志気を養う者は血気の動く所を為さず。利害に昧き所を為さず、義を見れば必ず為す。是勇能く仁智を資成するなり。然れば三者相因り相資成する者なり。故に常に此の三者彊くして心誠に之れに拠り、以て事に応ずれば其分に随い宜しきを為すに足る。假令死生存亡の際に処するも心を以て此の主有り。泰然不動、死生を塵埃に軽んじて其の志を達す。所謂天に上無く地に下無く、独住独来也。既此の如くなれば英雄の所為なり。是を以て士君子の要務、又、刀法の本と為す所也。

 上泉子の截合書に云う、務めて英雄の心知る。石舟斎の没茲味書、開巻第一義に勇を挙げる。又その歌書に仁義礼智を謂う。如雲斎が始終不捨書の初めに三皇五帝の徳を挙げ後、刀法に及び、先ず怯を戒む。円明流の奥義書、三達徳を述ぶ。是皆以て房成が述ぶる所、本と為す者也。世俗の剣家緒流も亦皆之れを本と為せり。然らば三達徳は凡そ剣士の本と為す所なり。司馬遷曰く、信廉仁勇に非ざれば、兵を伝え剣を論ずる能はずと。道と符を同じくす。内以て身を治むべし、外以て変に応ずべし。君子の徳に比すこと謂うなり。

 然れども世俗の剣家緒流の書の見るに鄙陋甚だしく理取るに足る無し。故に其の徒、智仁を失い単に一旦奮激致す所の勇を説き、遂に誤って勇にして礼義を無きを称するに至る。不遜を以て勇と為す者、非しきかな。ここに於て心、聖経相反し、其の説を聞く者其の弊風に扇らされ、武士の道皆以て然りと為すは、俗士の武事を穢す甚だしきなり。夫れ一旦奮激致す所の勇は未だ必ず義に合わざる者のみと謂えども、然も多く是血気の為す所、久しくして失はざるを得ず。趙氏曰う、血気の為す所の勇は溝曾の水、暴集して涸に随うが如し。故に是を小と謂う。義理に発する所の勇は、天開地闢して自ら己む能はず。故に大と謂う。蘇氏曰う、匹夫辱をみれば剣を抜きて起ち、身を挺して闘う。此勇と為すに足らざるなり。大勇士忍ぶ所あるなり。故に血気の勇は君子の取らざる所、何ぞ況んや聖経の戒むる所の者に及ばんや。害を為す甚だし。是を以て房成経伝を考え、勇の本を掲げて蒙士に示し、其の知る者のために述ぶるにあらず。然れども廣幾するも、これについて刀剣の法、必ず三達徳に拠るを知りていよいよ務めとする也。