【 概 要 】
新陰流居合は柳生厳長師範から鹿島清孝師範に伝わった居合である。
新陰流の居合と言うと、その流名に批判的な意見もあるが、それは時代の事情や人間関係の複雑さにより生じて居るのである。
事実を言えば、新陰流兵法には居合はなく、抜刀術(最近言われて居る柳生制剛流抜刀術とは別である)のみが伝わって居るのである。
この抜刀術は門外不出で、現在でも一部の者しかその存在すら知らないものであり、柳生厳長師範が制剛流居合術の伝書に記載されて居る技の名称を使用し、理合は新陰流や他流のものをまとめて新陰流居合として、当時流行しだした各流の居合と同様、一般に教授・普及しやすい勢法に編成し、世に出されたのである。
故に、この居合は実践即応のものとして考えずに、袋竹刀や木刀ではなかなか身につき難い刃筋や、その他の刀法の基本を身につけ、同時に足腰の鍛錬をする為の教え、又、将来抜刀術に入る為の基礎を身につける為のものと理解するべきである。
何故なら、武士が大刀一本のみを腰に差し、然も正座をすること自体、本来の姿からは外れて居り、又、勝口も不自然なものがあるからである。
故に、組太刀を補うもの、抜刀術を習う為の前段階として見るべきなのである。
然し、決してこれを疎かにするものではなく、その諸々の勢法は新陰流の正しい身法・刀法・勝口を得る為の錬法であり、更に煉丹法ともなって居る、実に貴重な心身鍛錬法であると言うことが出来るのである。
殊に、鹿島清孝師範の居合は、彼の河野百錬師範をも首肯させる程のすばらしい技に加え、その古武士の風貌は見るものに深い感銘を与え、将に芸術的居合「芸能」と言えるものであった。
尚、戦前より柳生厳長師範に就き鹿島清孝師範と共に修業した先人は、栗本信三師範・萩尾孝之師範が挙げられる。
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精勇館館長・鹿島清孝師範は初め名古屋において剣道を田中厚師範に学んだのち、京都・武道専門学校において内藤高治師範に就き更に究め、名古屋に戻って柳生厳長師範に就き新陰流居合を修め「新陰流兵法抜刀目録」を伝授された。 昭和46年、病により帰幽された。 主な門人に、鹿島清治・鈴木安近・園田信行・鈴村一男・秋田森冶・小林博・森十郎・神戸信夫の諸氏が居る。 |